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東北見聞録 2 歩く・会う・語る・住む
黒田四郎 著
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立ち読みコーナー
縄文のみちのくー三内丸山遺跡
 
 『或る通商国家の興亡』(PHP研究所)の著者・森本哲郎氏は、三内丸山遺跡について、世界の四大文明に続く第五の文明の可能性があるといわれているが、この世界の五番目の文明に関連して、最近中国の揚子江(長江)下流域の地方における幻の長江文明が、第五の文明になるのではないかとの有力な説が出ている。

 稲盛和夫・梅原猛編の『良渚(りょうしょ)遺跡への旅−幻の長江文明−』(林義勝・写真撮影、PHP研究所)によれば、人類の都市文明は、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河という四大文明に始まったといわれているが、このうち黄河を除く三つの文明は、今から五千五百年前から四千五百年前(三内丸山遺跡は、五千五百年前から四千年前なので大体この頃である)に栄えた文明で、黄河のみ三千五百年前のものであるので、不思議に思われたが、最近揚子江下流域の河姆渡(かぽと)遺跡から、七千年前(従来は五千年前が定説)の稲作遺構が発見され、稲の穂が層になって残っているばかりか、絹製品や素晴らしい黒陶の土器も出土している。

 その河姆渡遺跡からそれほど遠くない杭州(ハンチョウ)市の北側に良渚遺跡がある。三方が山に囲まれ、そこに川が流れていてその外側に城壁のような土壘が長く築かれており、この遺跡の西北に数か所の人工の丘陵があって、その中から良渚時代の墳墓も発掘され、特に現代のハイテク技術をもってしても製作しえないような玉器も大量に出土している。またこのあたり一帯は稲作文明が栄え、森を基礎とした一大文明を形成していたのではないかと思われるとし、さらにまたこれらは最初に中国を統一した黄帝によって滅ぼされたのではないかと推測されるということである。

 以上は稲盛・梅原両氏の視察旅行の成果の一端であり、これがいうならば幻の長江文明の予告編ともいうべきものである。同調査は、京セラの全額出資によって、日中合同の長江文明学術調査団(中国側調査団長・嚴文明北京大学教授、日本側調査団長・樋口隆康奈良シルクロード学研究センター長)により今後調査がなされるもので、稲盛会長の言葉によれば、単に人類史の解明に寄与するだけでなく、これからの人類の進むべき道に多くの示唆を与えるに違いないということである。

 また梅原猛先生は黄河文明以来四千年といわれてきた中国の歴史を大きく塗り替えるだけでなく、人類都市文明の誕生の謎や日本の縄文・弥生時代の解明に大きく貢献することになるに違いないと言っておられ、さらに前述の視察旅行に同行された安田喜憲先生は、古代文明誕生多元化説を立証することになり、同時に搾取と殺し合いの中であまりにも血にまみれすぎた現代文明の危機を打開し、新たな文明の時代を創造するうえにおいても大きな役割を果たすことができるのではないかと語っておられるが、私はこれらの示唆に大いに期待をしたい。

 そしてさらにいうならば、三内丸山の縄文人はこの中国の幻の長江文明を風の便りで聞いて知っていたのではないか。そしてなんらかの影響を受けているのではないかと頭の体操をしてみるのであるが、これらの点については両遺跡の今後の発掘により、あるいは解明されることになるかもしれないと思っている。

 それならば三内丸山はどうか。ここで三内丸山遺跡について、岡田康博氏(青森県教育庁文化課三内丸山遺跡対策室総括主査)からいただいた資料を参考にして、以下に簡単に紹介してみたい。

 三内丸山遺跡は今から約五千五百年から四千年前にかけての大集落跡で、JR青森駅から南西方向約三キロメートル、標高約二〇メートルの段丘上にあり、その範囲は約三五ヘクタールと推定されている。発掘調査は二五パーセントまで着手され、毎年行なわれている。その特徴は遺跡が広く集落が大きいことで、その中に住居、墓、倉庫、ごみ捨て場、祭祀の空間などの施設が規則正しく配置されている。特徴の第二はこの集落が約千五百年間存続したものであること、第三は出土遺物の量が膨大でその内容が超一級品であることである。さらにいえば、直径一メートルの栗の巨木を使った大型高床建物や長さ約三二メートルの大型住居建築などの優れた建築技術、および漆やヒスイ等の加工技術をもち、狩猟採集だけでなく、ヒョウタン、ゴボウ、マメ等の栽培や、また大量に出土した栗の花粉の遺伝子分析により明らかになったことによれば栗も栽培していたことなど、当時の技術水準を知ることができる。またヒスイ、琥珀、アスファルト、黒曜石など他地域からの遺物も多数出土している。

 特に私の注意を引いたのは、自然との調和の中で優れた文化が花開き、それを支えたのは前方の陸奥湾と彼方に広がる森林からもたらされた自然の豊かな実りを利用する知恵と技術、そして心である、と岡田氏が言われていることで、私はこのような縄文の心が、地球環境が悪化し精神の荒廃の危機にある二十一世紀の人類を救うのではないかと思っている。

◎二百年前の三内

 前述のごとく、評論家森本哲郎氏は、三内丸山遺跡について、世界の四大文明に続く第五の文明の可能性があると言っておられるが、私も今後の発掘調査のいかんによっては、その可能性もあるのではないかと思っている。現在発掘調査が続けられ、多大の成果があげられているが、これ以上は今後の発掘に待つこととし、ここでは約二百年前の三内について、平凡社東洋文庫の『菅江真澄遊覧記』第三(内田武志、宮本常一・編訳)によって述べてみたい。菅江真澄は愛知県の人で、太古の面影をとどめたみちのくにあこがれて、今から約二百年前、三十歳の春に国を発ち、みちのく各地をたどって北海道に入り、最後には秋田において七十六歳で亡くなった民俗学者である。

 前掲書の「三 すみかの山」によれば、
 「四月(寛政四年)有名な三内の桜を見ようと宿を出た。……遠近のどこの山も、村里いったい、すべて紅の雲がたなびくように、うすい色の桜花が咲きわたっている景色は、たとえようもなく美しい。世間ではすっかり過ぎ去ってしまった春の季節が、ここではいまなおとどまっている心地がして、野山の道もたいそうおもしろく眺めながら、三内村に来た。……三内の桜の花は、ふつう世間にある桜と似ていない。一本の木に二枝、三枝ささやかに茂って、花に花の寄生(やどりぎ)があるようで、またとたぐいのないものである。たいそう小さい花がびっしりと生い立って、この小桜にも小枝がまりのようにさし込んでいて、枝ぶりは皆同じであった。……村長に尋ねると、『これが名高い三内の千本桜といってまたと他にない桜である。天明三、四年の凶作(一七八三〜八四年の天明の大飢饉)の前までは、吉野は別として、広い世の中にもこのような見事な桜花のあるところはなかろうと、わが住む郷里ながら花の咲くころは誇りにしていたが、荒廃した世情のために薪に切られてしまい、今は桜の木も残り少なくなってしまった』ということであった」。

 私はこれを読んで、三内が吉野と並んで桜の名所であったこと、その桜が他にまたとない桜であったこと、天明の大飢饉を経ても、なお菅江真澄に感銘を与えるほど素晴らしかったこと、そしてまた三内に至るまでの道中の桜も美しかったことなどに深い感動を覚える。
 さらに考えるならば、桜の名所であったということは、それを愛でた人々が住んでいたはずであり、したがってこの周辺に文化の栄えたところがあったのではないか。そして、それらの人々は縄文人の血を引いた人々ではないか。さらに遡れば、これらの人々は、縄文人の血そのものではなかろうか。とするならば、三内の人々は植物についていえば、栗などの木の実を食用としていたようであるが、花では桜の花を愛でていたのではないであろうか。

 真澄はさらに、「この村の古い堰(せき)の崩れたところから縄型、布型の古い瓦とか……人の頭、仮面の形をした出土品もあった」としており、これらを殉死の代わりに埋葬の際埋められた埴輪ではないかと言っているが、どうであろうか。いま、三内丸山の遺跡については、壮大な謎解きが行なわれているが、以上のことは何らかのヒントにならないであろうか。

 最後に、真澄は、三内は昔は「寒苗(さむなえ)」の里であったとして、ここから「三内」になったのではないかと連想していることを、申し添えたい。