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東北見聞録 2 歩く・会う・語る・住む
黒田四郎 著
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立ち読みコーナー
雪国の小唄−新潟県・十日町市(とおかまちし)
 
 昭和四十年頃のことである。ある会合で同期の矢野俊比古君(通産省元事務次官)が十日町小唄を披露した。大変情緒豊かな調べに深く感動した記憶がある。また、私の尊敬するある方から、戦後わが国に民謡ブームをもたらしたのは、十日町市の人との話を聞いた。そこで十日町の勉強がしたくなり、本田欣二郎市長にお願いして七冊の本を頂戴した。以下十日町市と十日町小唄について述べてみたい。

 十日町市は新潟県南部、信濃川上流、十日町盆地の中心で、人口約四万五千、飯山線と北越北線(愛称は「ほくほく線」、思わずほほえみたくなる)の交差する要衝である。同市博物館の資料によれば、十日町市は「雪と織物と信濃川の町」とされ、都市としては世界一の豪雪地帯ともいわれ、人々は昔から雪の厳しさに耐え知恵を絞って暮らしてきている。

 織物については、その源を縄文時代に発し、奈良正倉院には千二百年前の越後布がある。江戸時代には越後縮として有名で、明治になって伝統と技術が絹織物に活かされ、昭和初期には明石ちぢみ(源流は丘庫県明石本縮)として全国を風靡し、戦後には新製品が次々と開発され、今では着物の総合産地となり、「東の西陣」といわれている。

 信濃川は、十日町市にとって母なる川とも思われているが、その流れの作った河岸段丘は日本一で、かつてこの台地に住み着いた縄文人の火焔土器は芸術性が高く、十日町市は芸術の里ともいわれている。

 十日町市はこのほかコシヒカリの町ともいわれ、またきものまつり、雪まつり、生そばまつり、多聞天押し合い祭り、生誕地まつりなどの行なわれる祭りの町でもある。津軽じょんがら節、八木節などの元唄となり日本民謡のルーツといわれる新保広大寺節のある町であり、北イタリアのコモ市およびフランスのルマン市と姉妹都市を結んでいる国際都市である。そしてさらには藁葺きの山門、茅葺きの本堂の神宮寺や、春は花、夏は緑、秋は紅葉、冬は雪と美しい自然に触れ、人の心と故郷に出合う感激を与えてくれる当間(あてま)高原などのある、観光の町でもある。

 しかし私には特に、十日町小唄の町と思われる。十日町小唄は、雪と織物と信濃川の織りなす妙なる調べではないであろうか。十日町市観光協会発行の『十日町小唄物語』および田村喜一著『十日町小唄の歩み』(十日町市編纂委員会編集発行)によれば、この唄の生まれた昭和四年(一九二九年)は世界的不況で、一方日本は民謡ブームであった。これに着目した十日町織物組合では、織物の宣伝のために民謡をということで、織物の技術指導を受けていた松坂屋意匠研究担当者・永井豊太郎に相談した結果、永井が作詞することとなり永井白シ眉という号で作詞、作曲は中山晋平で、当時売り出していた明石ちぢみのコマーシャルソングとして全国に先駆けて誕生した。雪国の情緒をうたった白シ眉の歌詞と、親しみやすい晋平のメロディーがその普及の源泉であるが、白シ眉が織物に関する言葉を抑え、もっぱら雪国の詩情を謳い、晋平が囃子を重視したことも普及に貢献した。この発表会には水谷八重子らも招き、町を挙げて盛大に行なわれ、宣伝も大いにされた。

 なお、昭和四年六月一日発行の中山晋平の編集により山野楽器店より楽譜として出版された『中山晋平新民謡第九集 越後十日町サッテモ節』(日本木版印刷)の表紙は、中山と名コンビの竹久夢二による大正ロマンの薫り高い美人画で飾られているが、夢二は明石ちぢみのポスターも描いており、十日町小唄の普及に一役買っていることを述べておきたい。 

 十日町小唄は当初「サッテモ節」と名付けられた。これは、作曲者・中山が前述のごとく囃子言葉の出来不出来によってその曲の生命が決まると強調し、あれこれと考えた結果「テモサッテモ ソジャナイカ テモ ソジャナイカ」が浮かび、これを囃子言葉と決定したからであるが、そのため「十日町小唄」は副題的な扱いとなった。

 終戦後、「サッテモ節」はしばらく鳴りをひそめていたが、昭和二十四年(一九四九年)の七月十五日の商工祭の時「サッテモ節」大会が開催されて復活した。ちょうどこのころから歌の題名も徐々に「十日町小唄」といわれるようになり、昭和三十年代にはほとんどこの名が定着した。その間昭和二十五年(一九五〇年)には、十日町民謡保存会が発足し、次第に町民を動かし、三十五年(一九六〇年)には『週刊サンケイ』誌で全国新民謡の第一位となり、これを契機として十日町小唄が十日町織物と関連しながら街の発展を築き上げてきた意味あいから、三十六年(一九六一年)十月二十一日には織物会館前に十日町小唄歌碑も建てられ、四十年(一九六五年)からは十日町小唄まつりで民謡流しも行なわれている。

 十日町小唄関係のイベントとして特記すべきことは、十日町小唄日本一優勝大会である。これは昭和五十七年(一九八二年)十月三十日に市の観光協会主催で始められた十日町小唄歌唱コンクールで、最初の頃は「十日町小唄優勝大会」と呼んでいたが、途中から「日本一とつけ加えるようになった。最初のうちは出場者は四十名にも満たなかったが、平成十二年七月一日に行なわれた第十九回大会では参加者八十六名にも達し、男性の部十五名、女性の部七十名であった。

 最後に、先に挙げた『十日町小唄物語』の口絵写真に添えられた詩「心に刻んだ『十日日町小唄』」を引用して終わりたい。

きのうは、すでに夢−
明日は、まぼろし−
だが、十日町の人々は、
今日も昨日もことごとく
幸せな夢とし……
すべての明日を
希望の幻にする
その希望の“もと”を
『越後十日町サッテモ節』にさぐる……