平成七年四月二十八日に、北海道・東北二十一世紀構想推進会議の総会において、北海道および東北のことを「ほくとう新国土軸」と呼ぶことが決定した。つまり、北海道と東北のことを、「ほくとう」といおうというのである。この「ほくとう」という言葉を遡れば、平成六年四月の前記の推進会議において策定された「ほくとう銀河プラン」においても「ほくとう」の語が使われており、さらに遡れば、東京海上研究所の下河辺淳理事長も「北東日本」の文字を使っておられる。いずれにしても、今後は「ほくとう」あるいは「北東」の文字は、盛んに使われ、次第に定着していくことになるであろう。そして後世において、「北東」の文字がいつから使用され始めたか問題にされることがあるかもしれない。
このように思って考えてみると、そもそも東北という言葉はいつ頃から使われ始めたのであろうか。私は以前からこの点に疑問をもち、かつて国土庁の方におうかがいしたことがあるが、そのときの返事では、明治になってから使われたようで、木戸孝允あたりではないかということであった。それからしばらくして、あるとき東北学院大学岩本由輝教授と懇談する機会があって、たまたまこの話になったとき、同教授は間髪を入れず、木戸孝允である、とおっしゃった。
七十七銀行勝股康行頭取の名著『萩は見ていた』(私家版)によれば、前述の岩本教授の『東北開発一二〇年』(刀水書房)の中で、木戸孝允の建議した「東北諸縣儀見込書」において、東北の言葉が初めて使用されたのではないかということである。
したがって本件については、一件落着ということになるが、どうして木戸孝允が東北に対しこのような思い入れをしているかの問題が残る。そこで大江志乃夫著『木戸孝允』(中公新書)を調べてみたが、残念ながらこのようなことには触れられていなかった。そこで木戸孝允の師の吉田松陰を調べることが必要ではないかと考えた。というのは、松陰は、青森県の龍飛岬や宮城県の石巻にも来ていたからである。
滝沢洋之著『吉田松陰の東北紀行』(歴史春秋社)によれば、松陰は、東北への旅で、いわきから入って、会津、新潟を経て、秋田、龍飛岬、青森、盛岡、石巻、仙台、白石、米沢に至り、会津若松から田島を経て江戸に戻っているが、その間各地の名士を訪ねて話を聞き、また本を探し歩き、約四カ月をかけて東北を調べている。したがって、松陰の東北に対する知識が木戸孝允に伝えられ、木戸孝允の東北に対する見識となって、彼により「東北」と名付けられたのかもしれない。そしてここから西南の役に見られるように、「西南」という言葉が出てきたのかもしれない。
以上で、ほくとうに始まって、東北に至り、この言葉が木戸孝允によって初めて使われたことを述べたのであるが、その師松陰は東北地方を隈なく歩き回り、しかも行きも帰りも会津若松を訪ねて詳しく調べていたことも、申し添えておきたい。 |