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東北見聞録 3 歩く・会う・語る・住む
黒田四郎 著
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立ち読みコーナー
仙台開府四百年の偉人たち
 
 伊達政宗は、一六〇一年、仙台城の普請および新城下の屋敷割を行い、町づくりに着手した。この時をもって仙台開府といわれており、二〇〇一年は、この時から数えて四〇〇年目である。市ではこの機会に、開府以来の史的資産を継承し、二十一世紀の新しいまちづくりの起点とするとともに、仙台開府四百年記念事業を盛大に行うこととした。

 このため、仙台開府四百年記念事業推進協議会(会長・村松巖(いわお)仙台商工会議所会頭)をもうけ、これを中心として二〇〇〇年に、一五一名参加のもと、平成遣欧使節団(団長・藤井黎(はじむ)仙台市長)をローマ法王庁に派遣し、仙台城石垣修復および艮櫓(うしとらやぐら)の復元事業、開府四百年秋まつりなどを、行なった。

 この記念事業は、民間からも募集され、NPOシニアネットワーク仙台と、サンモール商店街の共同企画による仙台賢人四〇〇人選定のプロジェクトも採択された。このため、前記両団体からなる「みんなで選ぶ仙台開府四百年の賢人四百人」実行委員会は、七名からなる仙台開府四百年の賢人選考委員会(長田洋子・北燈社代表取締役、東海林恒英・仙台市歴史文化事業団理事長、浜田直嗣・仙台市博物館前館長、塩田長和・河北新報社元論説委員、逸見英夫・仙台郷土研究会副会長、渡邊慎也・出版文化研究家)を設け、私はその委員長をおおせつかった。

 この選考対象は、仙台開府以降四〇〇年の間に、仙台藩(宮城県および水沢、一関(いちのせき)等岩手県の一部)および仙台市に特段の貢献をし、それらの名を高めた賢人であるが、選考に要する期間は二カ月余と非常に短く膨大な作業なので、まず諸般の事情を勘案して、藩政時代から二〇〇一年八月までの物故者に限定した。また、参考文献として『宮城県百科事典』(河北新報社)、『宮城県姓氏家系大辞典』(角川書店)、『白い国の詩』別巻(東北電力発行)、『仙台人名大辞書』(仙台人名大辞書刊行会発行)、『仙台市史』第一〇巻(年報、書目、索引篇)等を参照し、各委員が賢人候補を提供して議論を重ねた。

 これらの議論の中に、後に述べる各グループ間における賢人のバランスをどうするか、同じグループ内の賢人の比較をどうするかなどの難しい問題もあったが、熱心な議論が精力的に重ねられて、まとめることができた。これらは、二〇〇一年九月七日から九日の三日間、サンモール・ハンブルクフェア(第一四回サンモール・ハンブルクフェア−一番町サンモール商店街振興組合は、ドイツのハンブルク商店街と姉妹提携し、毎年サンモール商店街でフェアを行なっている)の一環としてサンモール商店街に掲示し、大勢の市民の方々の興味を引いた。

 ここでは、紙数の関係から、四〇〇名の名前は省略し、概括的に述べるにとどめる。まず時代によって、藩政時代と、明治から二〇〇一年八月までの二区分に分けて、賢人を選び出した。藩政時代では、伊達政宗らの藩主、原田甲斐(はらだかい)らの領主、支倉常長(はせくらつねなが)らの藩士、大槻玄沢らの学者グループと、麹の佐藤長左衛円らの農、石工の黒田屋八兵衛らの工、呉服商の岩井八兵衛らの商のグループと、虎哉宗乙(こさいそういつ)らの高僧、大淀三千風(おおよどみちかぜ)らの文人、菅井梅関(ばいかん)らの画家グループに分けた。明治から平成までは、高橋是清らの政、遠藤庸治・元仙台市長らの官、吉野作造らの社会、富田鉄之助・元日銀総裁、大槻文平・元日経連会長、仙台の老舗らの経済のグループと、南天棒らの高僧、本多光太郎、土井晩翠らの学術、文化勲章受章者、澤柳政太郎東北大学初代総長らの教育グループと、魯迅らの外国人グループに分けた。

 これら賢人四〇〇人の名簿は、サンモール一番町商店街振興組合、シニアネットワーク仙台共同発行のものと、『仙台っこ』二〇〇二年二月立春号の「仙台開府四百年の賢人」(名簿のほかに賢人二九名の偉業が述べられている)があるが、いずれも部数がとても少ない。できれば四〇〇人の賢人の名前とその偉業が、なんらかの形において印刷されないものかと、私は願っているところであるが、ここではそれらのうちで、私たちが参考にした前述の資料に掲載されていない賢人一名だけについて述べてみたい。

 それは伊能ノブである。ノブは、仙台藩医・桑原隆朝の娘で、伊能忠敬の後妻になった人である。伊能家の家付き娘ミチの婿養子となった伊能忠敬は、ミチの死後ノブを後妻に貰った。ノブは忠敬が天文に関心をもっていたので、一緒に星空を眺めたりしていたが、ある時忠敬に対し、「長男景敬も大きくなったので、そろそろ隠居をされて好きなことをなさっては如何でしょうか。私の父は自分のしたいことをしないで、抑えていると体に良くないと言っていましたが、今の状態では体に障りますので、早く隠居して好きな天文や地図の測量に進まれては如何ですか」と勧めた。伊能忠敬はこうしたノブの勧めもあり、隠居して近代日本地図の基といわれる日本地図を作製した。ノブの内助の功はまことに大であった。しかし難産のため、結婚後わずか五年で亡くなってしまった。

 最後に、われわれの四〇〇人の賢人の選定は、拙速の譏りを免れないかもしれないが、よくまとめることができたと思っている。そしてどの賢人も、すばらしい仕事をしている。それらをここで述べられないのが心残りであるが、これらの賢人の偉業に接することは、私たちにとって、特に青少年の方々にとっては、励みとなり、生き甲斐ともなるものと思われるので、これら賢人の偉業を、できるだけ今の世の方々に広くPRし、そして彼の世に伝わることとなるよう、努力したい。

 そのようになれば、今から五〇年後の仙台開府四五〇年の時において、後世の人々は、賢人四五〇人を選定することを考えるかもしれない。そのときには私たちのこの名簿は、参考にされるかもしれないであろう。そして、こうした企画は、わが国のどの県においてもなされていると思うのであるが、していない県にとっては参考になるのではなかろうか。

 折しも、二〇〇三年は江戸開府四〇〇年であった。仙台開府は江戸よりも二年先であったのかと、感慨無量である。江戸開府四〇〇年にあたり、賢人四〇〇人の選定はあったのかは、寡聞にして知らない。