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東北見聞録 2 歩く・会う・語る・住む
黒田四郎 著
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立ち読みコーナー
広瀬川
 
 いつからであったろうか。いつしか私は毎朝散歩するようになった。十九年ほど前仙台に移ってきても、散歩の習慣は変わらなかった。それどころか、仙台には広瀬川があり、美しい自然と豊かな歴史があったので、散歩は私にとって欠かすことのできない楽しみとなった。

 私の住居は、仙台の名門片平丁小学校の体育館前のマンションにあった。ここは広瀬川まで約四百歩と近かった。山本周五郎著『樅の木は残った』(新潮社)において、原田甲斐が娘伊織を連れて、坂道を下って釣りに行く場面があるが、私の散歩は、その坂道と思われるところ、いまでは急峻の石段となっているが、ここを下りて広瀬川に出るところから始まった。

 川のすぐ下手には榎の古木が聳えており、河川敷には緑の常盤木(ときわぎ)が一杯生い茂っている。

 これらを見ながら、広瀬川の左岸を上流に向かって行けば、伊達藩時代の裁判所があったとされる評定河原(ひょうじょうがわら)の評定河原橋が左側に、そして今はマンションが並んでいるが、伊達政宗が造って、正室愛姫(めごひめ)らとともに屋根付きの花壇橋を渡って花を愛でたといわれる花壇を右に見て、対岸には山奥にしかいない肉食の野鳥チョウゲンボウの出入りする断崖を見上げながら、瀬と渕の織りなす広瀬河畔を散歩した。魯迅が最初に下宿した佐藤屋(今は子孫の竹中さん宅)も近くにあった。おそらく魯迅もこの風情を楽しんだことであろう。

 七年ほどここに住んでから、私は千八百歩ほど奥に入った東北学院大学裏の青葉区土樋(つちとい)に移り住んだ。ここは魯迅が二番目に下宿したところに近く、広瀬川までは約八百歩の距離にある。朝家を出て、KS鋼の発明者で、元東北大学総長・本多光太郎の旧邸宅とか、連歌の父といわれた国文学者・山田孝雄元東北大学教授の旧邸宅を左右に見ながら、江戸時代鹿の子が清水を飲みに来たといわれる「鹿(か)の子清水」からのだらだら坂を下りて突き当たると、縛り地蔵がある。この入り口に宗教法人米ヶ袋縛り地蔵尊の前代表役負、三浦幸太郎さんが調べられた「縛り地蔵の由来」の板碑がある。

 それによれば、伊達騒動で伊達兵部(ひょうぶ)を切ろうとした伊東七十郎重孝は米ケ袋の刑場で処刑された。その処刑を執り行なった首切り役人小人頭の萬右衛門は、彼の首を切った翌日小人頭を辞め仏門に入り、供養のため地蔵を立てたのである。この地蔵は人間の苦しみならなんでも除くといわれ、願かけに縄で縛るため、地蔵さんの顔も身体も縄でぐるぐる巻きになっている。ここの石段を下りると、対岸の崖上は愛宕山で、愛宕神社と大満寺の虚空蔵堂がある。『三太郎の日記』の著者として有名な元東北大学教授・阿部次郎がよく散歩したところで、虚空蔵堂には千体仏があり、この「千体(せんたい)」から地名が「千代(せんだい)」となり、「仙台」となったといわれている。

 この愛宕山を見上げながら広瀬川の左岸を上流に向かえば、左岸の崖上に東洋館がある。ここは東に太平洋を臨むところから、このように命名されたのであるが、かつては阿部次郎、山田孝雄、小宮豊隆(とよたか)、木下杢太郎(もくたろう)、土居光知(こうち)らが、毎月一回、俳諧研究会を開き、文学に花を咲かせたところである。

 東洋館の下、私の散歩道から見ればその手前に、鹿落坂(ししおちざか)がある。鹿が山から下りる坂という意味である。三原良書著『広瀬川の歴史と伝統』(宝文堂)によれば、この鹿落坂は、仙台開府の頃まで東(あずま)街道といわれ、みちのくの幹線道路で、江戸方面から仙台に入る人々は多くこの道を歩いたといわれる。さらに続けてこの東街道は、鹿落坂から広瀬川を渡って、前述の鹿の子清水坂を経て宮城野に出たとされている。

 右手は宮城県立工業高校の裏で、石段を上ると、胡桃林のアーケードがしばらく続き、ここを抜け出て石段を上がると、左側の広瀬川にはメタセコイヤの化石が東西に並んでいる。これを見おろしながらさらに進むと、平成十二年にエジソンメダル賞を貰われた西澤潤一前東北大学総長の邸宅に出て街中に入り、環境庁長官をされた愛知和男先生のお宅の前を通って帰るのが、私の散歩コースである。約四千歩の道のりである。

 この散歩コースは、季節で見れば、一月、二月は鴨、鴎の独断場で、折に触れて白鷺がせせらぎの瀬に立つ。三月、四月には鴬も鳴き始め、枯れ野の河原に土筆(つくし)や蓬(よもぎ)が萌え出て、桜花爛漫の風情。五月、六月には、河鹿蛙(かじかがえる)が愛を囁き、ウグイの大群が背鰭を水面から出し、大きな音を立てて川を遡る。七月、八月には鮎漁の解禁、郭公(かっこう)が鳴き、月見草の天下である。九月から十月には、コスモス、紅葉、銀杏となって、十一月。その間、石を組み立てての芋煮会。そして鴨が飛来して十二月となる。

 四季を通じてみれば、広瀬川のせせらぎの囁きはマイルドである。首都圏などからの旅行客はこのマイルドな囁きが神経の疲れを癒してくれるという。渕はエメラルド色をなし、朝夕には魚が飛び跳ねる。仙台科学館の高取知男さんの話によれば、かわせみも見られるがやませみもよく見られるとのことである。朝夕五時には対岸の愛宕山にある大浦寺の鐘、そして六時には経ヶ峰瑞宝寺の鐘が鳴る。広瀬川の四季折々の風情は、このように私たちには限りない恵みである。そこで私は、このようにありがたい広瀬川にご恩返しの意味も込めて、もっと知りたいと思って調べてみた。以下に述べてみたい。

 ◎歴史をうつし流れる川

 平成十一年九月に東北電力グリーンプラザが編集発行した『仙臺(せんだい)川物語』によれば、北は青森県蓬田(よもぎだ)村の広瀬川から、南は鹿児島県内之浦町の広瀬川まで、広瀬川という名の川は全国で十河川あり、その中で一番長いのが仙台市の広瀬川(四五キロメートル)である。「青葉城恋唄」(作詞・星間船一、作曲・さとう宗幸)および「広瀬川慕情」(作詞・みかみけいこ、作曲・猪俣公章、編曲・高見弘)が全国に愛唱されて以来、広瀬川といえば世人は仙台の広瀬川を連想するのではないであろうか。

 広瀬川は、山形県と宮城県との県境に源を発し、名取川との合流地点までの約四五キロメートルの一級河川である。源から合流点まですべて仙台市内で、一つの市町村だけを流れる一級河川はほかに例がないともいわれ、また都市の中央を流れる川で広瀬川ほどの清流は、ほかにほとんどないといわれる。

 新人物往来社の『全訳吾妻鏡』によれば、「文治五年(一一八九年)八月七日、陸奥国伊達郡阿津賀志(あつかし)山で源頼朝と藤原泰衡と対峠……藤原泰衡軍は後退し……名取、広瀬の両川に大縄を引きて柵とす」とあるが、これは広瀬川が文献に最初に見られるものである。『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』(平凡社)によれば、南北朝期の観応二年(一三五一年)にも広瀬川は合戦場となり、これにより南朝方の北畠顕信側は一時的にしろ陸奥国府を奪回したとされている。

 私の文献による広瀬川の調査は、以上にとどまり、伊達藩の時代となるが、それまでに広瀬川を訪れたと思われる人について書いてみたい。

 第十二代景行天皇の時日本武尊は東街道を下って西多賀に至り、滋賀県多賀神社から分霊して多賀神社を置き、武運の長久を祈ったと伝えられている。もしそうだとすればおそらく広瀬川を眺められたであろう。万葉歌人大伴家持(おおとものやかもち)は、西暦七四九年に

  すめらぎの 御代栄えむと 東なる
   みちのく山に 黄金花咲く

 と歌い、後に多賀城に赴任しているが、もちろん広瀬川を渡っていることであろう。七九七年に征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂は、八〇一年蝦夷を平定し、八〇四年征夷大将軍に再任されており、おそらく広瀬川を渡っているのではないかと思われる。九九五年、一条天皇から陸奥の歌枕を見て参れと言われた実方中将も、陸奥に赴任して宮城県名取市を拠点にして歌枕を見て歩いたから、もちろん広瀬川を渡ったはずである。

  都をば 霞と共に 立ちしかど
   秋風ぞ吹く 白河の関

 と歌った平安中期の歌人能因(のういん)法師も、そしてまた前九年の役の源頼義(よりよし)も義家(よしいえ)も安倍宗任(あべのむねとう)も、そしておそらくは安倍貞任(あべのさだとう)も、広瀬川を渡ったか、あるいは知っていたことであろう。

 また藤原秀衡(ひでひら)を頼って二度も陸奥に来て、途中実方中将を慕い、その墓を名取市に見つけた西行も、もちろん広瀬川を渡ったであろう。

 このように述べてくるとき、広瀬川を訪れたと思われる歴史上の人物については際限がないので、伊達政宗の時代に入りたいと思うが、その前にもう一人だけ述べれば、政宗は米沢から仙台に来る前に十二年間岩手山にこもっていたが、この時徳川家康も政宗に会いに岩手山に来ているので、広瀬川を訪れていることであろう。

 政宗は、一六〇八年千代城(せんだいじょう)(後の青葉城)に入城する時、

  入りそめて 国豊かなる 砌(みぎり)とや
   千代に限らじ 千代(せんだい)の松

  と歌い、この国は豊かであるので、千代城は永遠に続くであろうと言っているが、築城にあたっては、広瀬川を外堀として防衛の要としている。

 政宗は広瀬川をこのように位置づけるとともに、四ッ谷用水を着工したとされる。これは青葉区六郷の広瀬川から取水し、市内を通り梅田川に注ぐ総延長四四キロメートルのもので、生活用水路として仙台城下を潤した。この用水は、一九三〇年代にはほぼ姿を消したが、平成十三年(二〇〇一年)の仙台藩開府四〇〇年を機に、四ッ谷用水を復活しようとのねらいから、四ッ谷用水復活市民の会(佐藤昭典会長)が平成十二年二月設立された。その活動に大いに期待したい。

 前掲の『宮城県の地名』によれば、四ッ谷用水に加えて、広瀬川下流の舟丁付近の堰場(どうば)から取水された水は七郷堀を通じて、また郡山堰から取水された水は六郷堀を通じて、それぞれ七郷地区および六郷地区を潤した。その他広瀬川は、木材の輸送を含む舟運にも利用され、また七夕の飾り流しなど、精霊を送る川でもあった。

 ◎環境を守る願いとともに

 このように仙台市民に利用された広瀬川も、半面においては荒れ川で、たびたび洪水に見舞われたが、一九五〇年の大洪水後は、護岸工事も進められ、また仙台市の飲料水供給のため大倉ダムの造られたことなどにより、水害はほとんど発生しなくなった。

 ところで、この大倉ダムの建設や、工場排水、生活排水によって、昭和三十年代になって広瀬川は汚れてきた。こうしたこともあってか、仙台市は、昭和三十六年(一九六一年)十月、「まちも健康 市民も健康」を願って健康都市を宣言し、昭和四十二年(一九六七年)には下水道敷設、四十九年(一九七四年)三月には杜の都の環境を守る条例、同年九月には広瀬川の清流を守る条例を制定し、このようにして広瀬川の清流は復活し、「広瀬川慕情」とか「青葉城恋唄」が世に歌われるようになった。広瀬川物語編集委員会編『広瀬川物語』中の郷土史家・関根一郎氏執筆の「広瀬川の魅力」によれば、仙台市が健康都市を宣言してから二十年目の昭和五十七年(一九八二年)十月、二十周年記念事業としてもう一度広瀬川を見直そうということで、広瀬川自然博物園構想が具体化した。そのねらいは、広瀬川を自然学習の場、憩いとやすらぎの場、郷土の歴史の学習の場、文化創造の場とし、さらには鳥、動物、植物の生息の場、人と動植物とがかかわり合いをもつ命の場としようというものであった。

 ところで広瀬川は、野鳥や魚類の生息はどうであろうか。昭和五十年(一九七五年)の時点で、仙台市の調査によれば、広瀬川の植生は七一〇種類、野鳥一二〇種類、魚九二種類、トンボ八〇種類、蝶類六○種類といわれている。このように自然に恵まれた広瀬川では、毎年探鳥会、短歌会、俳句会も開催され、自然博物館構想にふさわしい場所である。

 私は先に江戸時代以前に広瀬川を訪れた人々を、推測を交えて書いたが、前述の関根一郎氏によれば、吉田松陰、古川古松軒、高杉晋作などを挙げておられる。私は松尾芭蕉について書いてみたい。「奥の細道」によれば、「名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四〜五日逗留す。爰(ここ)に画工加藤加右衛門と云ものあり。……一日案内す」

 とあり、広瀬川は出てこない。しかし曽良の日記によれば、

 「仙台についた。とりあえず国分町の大崎某方に泊った。五日から旅立つ八日迄は、ほど近い立町の画工北野屋嘉右衛門方に寄寓」
とあり、続いて亀岡天神にお参りしたとある。亀岡天神にお参りするためには、広瀬川を渡らねばならないので芭蕉も渡っている。

 私がこのように広瀬川に来た人のことについてこだわるのは、広瀬川を訪れた人々が広瀬川について何と思い、どのように歌っているか知りたいからである。しかし私の調べたところでは今までのところ土井晩翠(ばんすい)の詩「広瀬川」を除いては、広瀬川を歌ったものは見あたらない。ほかの日本の川と同様、広瀬川は格別に印象に残らなかったからであろう。

 昭和五十八年(一九八三年)広瀬川は、二十一世紀に残したい日本の自然百選に選ばれ、昭和六十一年(一九八六年)には日本百名水選に選ばれている。一度汚れたが、ほかの川が汚れつつあるなかにあって前述のように仙台市が中心となって再び美しい自然の中に清流を復活させたからであろう。本当に素晴らしいことである。しかし昨今の広瀬川を見るに、水量が少なくなってきているとか、清流ではあるが水の質はどうであろうとか、河川周辺の樹木がいたずらに伐採されたり、その他開発しすぎているのではないかとか、人間の側に立った開発に走れば他の河川と異なることのない平凡な河川になってしまうのではないか、などと憂慮する向きもある。こうしたこともあってか、平成十二年二月十九日仙台都市総合研究開発機構(久水輝夫理事長)の主催のもとで、広瀬川を仙台市のシンボルとして位置づけ、まちづくりへの活用法を探る「広瀬川わいわい塾」が、片平市民センターで開催され、佐藤昭典・同機構シンクタンク顧問による広瀬川に関する基調講演に続き、「遊べる広瀬川」「学べる広瀬川」「生活と広瀬川」の三テーマに分かれて討論がなされ、私も参加した。いずれこの結果がとりまとめられると思うが、大いに期待したい。

 このように広瀬川の清流を保つために、官民一体となって不断の努力がなされているところである。この点に関してさらにいうならば、同年三月、国連開発計画(UNDP)により、仙台で「人間開発と国際協力セミナー」が開催され、モーリス・ストロング国連事務次長は「地球環境と地球憲章」のタイトルで基調演説をされた。その中で同次長は、「広瀬川は地球環境保全問題のサクセスストーリーである。また地球サミットでも仙台市は活躍し、国際的にも定評がある」と言われ、広瀬川の清流復活を高く評価しておられる。

 今や新しい第三ミレニアムが始まり、二十一世紀が始まろうとしているが、官民一体となって美しい自然に囲まれて、清流広瀬川が保たれるように努め、二十一世紀の終わりにおいても、第三ミレニアムの最後の時においても、清流広瀬川の名をほしいままにすることを願ってやまない。